【活動記録】「宝町のあゆみ」編集のあゆみ part1
こんにちは!
呉高専IW「宝の町をブラッシュアップ」広報です。
突然ですが皆様「宝町のあゆみ」はもうご覧になりましたでしょうか?
「宝町のあゆみ」は、呉駅南口に位置する、呉市宝町地区について、
その歴史を、まちづくりの観点を交えてまとめたものです。
この記事では、編集の経緯や用いた資料について、詳しく解説してまいります。
チーム紹介
はじめに、改めてチームについて自己紹介をさせてください。
まず、私たちは呉高専の「宝の町をブラッシュアップ」というチームに所属し、2015年から活動しております。
その活動目的は、呉市宝町地区から呉の魅力を知ってもらうことです。
宝町は、大和ミュージアムやてつのくじら館などが立地している一大観光拠点です。
観光客が県内外から連日訪れ、大変な賑わいをみせていますが、
一極集中のあまり、呉市内での回遊性が失われていることが問題となっています。
そして、人の多く集まる宝町の中でさえ、知られていない呉の魅力が沢山あります。
それが、宝町から見える呉の景色、そして呉の歴史です。
私たちは、宝町から呉の魅力に気づいてもらい、もっと呉を好きになってほしい!
その思いで活動しています。
編集の経緯
続いて「宝町のあゆみ」の編集を決めるまでの経緯をご説明します。
「宝の町をブラッシュアップ」チームは、大きく分けてリノベーション班と広報班の2つに分かれ、それぞれが連携して活動しております。(詳しい活動内容はコチラ)
宝町をフィールドとして活動する中で、呉市役所や市民の方々と交流し、宝町の歴史についてお話を伺うことが多々ありました。
どの話も面白く、検索しても出てこないような情報ばかりでした。
大和ミュージアムで「呉の歴史」を知ったら、次は「この場所の歴史」も知ってほしい。
その為には、宝町についてもっと調べて、まとめなければ!
という思いが募り、宝町の歴史に関わる資料の調査を始めることにいたしました。
資料の紹介
ここからは、収集した資料の一部について、解説と調査の経緯をまとめます。
戦前の古絵葉書
戦前の宝町(単に駅裏と呼ばれていた)には、海軍の上陸場が置かれており、
その様子は、当時の古絵葉書に収められています。
大正5年、つまり現在から100年前の時点で、宝町が呉港の要所となっていたことが分かる、貴重な写真です。
桟橋の上を、セーラー服を着た水兵さんが歩いています。
奥の呉湾には、船舶のシルエットも確認できます。しかし、江田島の稜線は天候によるものか、意図的にかはわかりませんが、はっきりと見えません。
当時の駅裏(宝町)は海軍の用地であったため、戦後まで市民に開かれることはありませんでした。
これらの写真は、私たちと同じく呉高専で活動するチーム「呉高専 呉の魅力発信プロジェクト」から提供を受けて、データ化いたしました。
同チームは、呉市内の古絵葉書を特設サイトでアーカイブしています。ぜひご覧ください。
modernkure-ehagaki.localinfo.jp
戦後の宝町
敗戦に伴い、駅裏は旧海軍用地のために占領軍に接収されていましたが、
昭和29年ごろから返還の交渉が加速し、昭和31年に呉市に変換されました。
(余談ですが、おそらくこの頃「宝町」と正式に名付けられたと思われ、その由来としては「戦時中、この場所にあった海軍の軍需部(倉庫)が市民にとって宝に見えたから」という説も伝わっています)。
昭和33年には呉中央桟橋が開通。呉市民のもとに、港が戻ってきた記念日となりました。
開通後の呉市の記録資料では、当時のにぎわいが伝わってきます。
桟橋には軍艦ではなく、旅客船の姿。2枚目の写真は、開港から数年後の写真と思われますが、ゲートに「呉みなと祭」の文字を確認できます。
桟橋の写真を1つとっても、呉の戦後復興の様子が伝わってきます。
これらの資料は、呉市中央図書館にて、司書の方に調べていただき、
収蔵してある呉市発行の資料からピックアップいたしました。
次回は、平成以降の資料にも触れていこうと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。